ko2112の日記

特別支援学校教諭2年目 本の内容のメモ中心

障害者は不幸じゃない!と言い切れる?

時代が進むにつれて、障害の認知が高まってきている。徐々に、法律も整備され、共生社会を作っていこうという動きが出てきている。

   同時に、多くの研究者、教育者のなかで、

「障害は決してマイナス(不幸)ではない」という趣旨の主張をする者が多い。

  むしろ、プラスになんとかして、良い点、良い点をもっていこうとしているように見える。

 最近は、差別という点で、平等を主張し、むしろ障害は不幸じゃない、耀いてる子だとか。世の光だとか。っていう考えが生まれてきている。

  また最近はすぐ、障害の漢字の表記で論争になる。ひらがな か 障碍か 。当事者の人的にはそんなことで、議論するなら、もっと自分たちの生活に対して議論してほしいんじゃないかな。

 

文章の論や流れが自分でもよくわからなくなったところで自分の主張だ。

自分は、障害がもたらすマイナス面にもっと触れて、それを受け入れたうえで子どもとかかわりたい。

  たぶん、今の世の中、こういう考えはボコボコだろう。

でも、やっぱり障害ってものは、大きなハンデだと認めざるおえないと思う。

 自分が、肢体不自由だったら満足にサッカーできないし、知的障害だったら今のように勉強もできない。 耳や目が不自由な生活なんか正直考えられない。  

  逆に寝たきりの子が身体をうごかせるようになったり、Y君が音声言語を使えるようになったらどれだけ、生活がスムーズにすすむだろうか。  

 乙武さんの主張は当事者としての意見で貴重だけど、五体満足を一度経験してもらったうえで話をききたい。それでも、今の状況不幸じゃない?

  個人的にはやっぱり障害というものを認めなきゃ。そこを受け止めてかかわりたい。

 差別主義者に見えるかもしれない。 

   「障害は直すのではない」とので

  でもハンデを改善という点をもう少し考えた方がいいと感じる。

ハンデがあったとしても、生活の質を向上させることは絶対できると思う。

そのためにどんな支援ができるだろう。

  

 ハンデに対して、一緒に何ができる。。

 

 

  

     

 

ただのひとりごと。*私しか日記の内容の意味はわかりません。

来年から、大学院に進学する。卒業時には修士論文が必要になる。そして、いま自分は卒業論文を書いている。

しかしながら、自分にとって  論文を書くことが、つまらなく、ストレスが溜まる作業で、やる気がでない。もちろん大部分は自分の力不足からであるが、時間の無駄感が収まらない。

 添削をしてもらい直す過程にいるのだが、

言葉の意味や分脈から直すようにとの指示がでている。その量がハンパではない。

読んでもらうもの、見てもらうもの、ということは、理解できる。 でも、その、直す作業が、子どもに対してどのようなメリットがあるかわからない。。 そんな作業に時間を割くなら、学校に行って子どもとかかわったり、これからのかかわりを向上させるために、心理や指導法を研究したりした方がいいと思ってしまう。

  「事故によって重い障害を煩った」では論文ではダメなのだ。だいたい想像はつくといえど、具体的に どういうこと、ということだ。

 どう変えていけばいいのか 言葉が見つからない。

 1番嫌いな言葉は「意義」 

どんな意義があるのかって、考える作業が苦痛。カンタンにいえば、子どもがもっと生活に苦労しなくなるように とかだけど、アカデミックに書けない。 またまた、「生活に苦労しない」ってどういう意味って突っ込まれるし。

    文章力がなくてなくて、悲しい。

ブログをはじめてみる。

ひとつの理由は文章力の向上。

文章力がなさすぎて、なさすぎて、

硬い表現で文章を書くのは苦手だ。

だけれど、これから、修士論文、就職してから、、論文を書いて評価される。

口語のような書き方ではいけない。

知的な文章を書きたい。

教授をdisってるのではないけれど、本当に難しく書くのがお上手だ。 大したことやってないのに、難しいことをやっているように見せている。 うらやましい。

日々の記録とともに文章をかいていきたい。